2013年12月17日

合理性の限界

中学2年の夏、とある駅で真っ黒に日焼けした彼に再開した。彼は

スラッとした今思い返せば男前で、テニス部の有力メンバーでもあ

った。夏の白いワイシャツが日焼けした顔と対照的で何とも言えな

い清々しさを同じ年である私は少し羨ましさを滲ませながら感じた。

彼とは中学2年で同じクラスになったのだが、1学期で新興住宅地

に引っ越していった。古い街でずっと住んでいる私にとっては、新

興住宅地に引っ越すそのこと自体にも何か自分にはない境遇を彼に

覚えた。新興住宅地は新しく施設された鉄道がその賑わいを支え

ていた。その住宅地は私の住む堺市の南部に位置する。泉北ニュー

タウンと当時言われていて、大阪では北の千里ニュータウンと並ん

で、ニュースになったところだ。中学時代以降も泉北ニュータウン

に引っ越すことのできる世帯はどんどんと引っ越して行った。私の

一家も泉北に引っ越す話が出たらしいが、今は亡くなったお婆ちゃ

んが新しい街の新しい生活に強く反対し、引越しの話は消えた。泉

北ニュータウンに引っ越せる家は私にとって憧れの一つでもあった。

新興住宅地の大動脈である鉄道は泉北高速鉄道と言い、第3セクタ

ーが運営していた。私鉄からの支線となるこの泉北高速鉄道なのだ

が、鉄道としては泉北ニュータウンを独占している。住民の移動手

段としてはバスがあるのだが、いかんせんバスは時刻が読みづらい。

なので、どうしてもこの鉄道を使うことになる。この鉄道は高架が

進んでいて、景色も駅も美しいのだが、料金が高い。異常に高い。

だから3セクといってもの経営状態が良いのだろうけれど。この異常

な運賃の高さに橋本徹代表が率いる維新の会が切り込んだ。ここま

では良い。3セクの売却に幾つかの企業が名乗りをあげた。ターミ

ナル駅となる中百舌鳥駅を所有する南海電鉄とファンド系の海外資

本。入札額は、報道によれば南海電鉄が720億円、海外資本が780億

円だったという。当然に経済合理性、ビジネス合理性では高く入札

した方に落札が決まる。なので、海外資本が当然に落札をした。し

かしここに待ったがかかった。大阪府議会がこの売却を議会で否決

したのだ。それも維新の会の造反があって。維新の会はそもそもこ

の鉄道の経営を民間に任せることを訴えてきた。その維新の目玉の

施策を身内の者が裏切ったということになる。造反したのは5名だっ

たか。そのなかの4人はこの泉北地域選出の議員だという。少し状況

を探れば、海外資本は自社が落札した計画では初乗り運賃を10円

下げるとしていて、一方南海電鉄は初乗り運賃を80円も下げる計画

だった。住民にすれば南海電鉄に落札してくれた方がもちろん良い。

しかし大阪府としては高い金額を提示した海外資本に売却した方が、

利益が大きいというわけだ。どちらが良いのか?大阪府の合理性か

ら言えば海外資本、住民の生活利便性からすれば南海電鉄というこ

とになる。ここで問題になるのは、では政治は何を代表するのか、

ということ。造反した議員は選挙区民の利益代表であるのなら当

然の行動といえる。運賃は10円下がるより、80円下がる方が住民

には良いに決まっている大阪府は大阪府でより地方財政を改善し

ようとするものだ。こちらも当然の行動だ。ミクロとマクロの相

克、経済合理性と住民の厚生(利便性)の対立。各々が限界を持

っている。それが今、対峙している。

ただ言えるのは、泉北ニュータウンは数年も前から人口が減少し続

けているという事実である。
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2013年12月06日

倍返しの効用

今年の流行語大賞が決まった。今日では少し話題が遅いかもしれない

けれど。おもてなし、これがオリンピックの東京招致に強い追い風を

吹かした。今でしょ、は予備校の先生のメッセージが深く浸透した。

じぇじぇじぇ、はNHKの朝の連続ドラマ小説の人気復活に広く貢献

した。そしてもうひとつの倍返し。ビジネス小説をドラマ化したもの

だが、主人公が貶められる相手にたして倍にして復讐(やり返し)を

行うものだ。バブル時期の膨れ上がった社会人世代を表したものだ。

組織の理不尽な罠に主人公がハメられていくのだが、機転と運と効

率的な対策で逆に相手に仕返しをする。ドラマの最後は大手企業のサ

ラリーマンをした人には十分理解できる一見正義に反するような終わ

り方をする。感情的な倍返しは行えるのだが、組織の理論は倍返しを

行ったものにもそれ相当の鉄槌を振り下ろすのだ。それはまるで既存

勢力に対する抵抗者(改革者)が改革を実現するけれども自分も殺さ

れてしまうというものに似ている。ドラマとしてはこれで復活の興味

がそれこそ倍以上になるという目論見もある。

 この倍返しを(仕返し)を良しとしない偉大な政治家がいた。ネル

ソンマンデラ氏である。氏はイギリス統治下の南アフリカ共和国に生

まれた黒人である。白人のアパルトヘイト政策(人種隔離政策)に反

対・抵抗をし続け牢獄に入れられる。牢獄の中からも運動を続けそし

てアパルトヘイト政策をなくした。自分も民主的大統領になったが、

その時に訴えたのが(これまでの白人の傍若無人や好き放題振舞って

きたこと)報復処置は社会的に取らないということだ、このことによ

り民衆は混乱をすることなくマンデラ氏は大統領の職務を全うした。

転覆された旧勢力の台頭を誘発しなかったのである。主権を奪われた

旧勢力の巻き返しはいつの時代にもある。織田、豊臣を見ればそうだ

し、フィリピン政府もそうである。このような例は政治においては枚

挙に暇がない。この報復人事、報復手段を氏は放棄したのだ。

 どうだろうか?会社においても報復人事はあちらこちらに見られる。

また新聞紙上も賑わしているほどだ。その証左に倍返しなるものが世

の中の流行語にもなるほどだ。良きリーダーになるには、敵対する相

手に対しても敬意を持たなくてはいけないと言う。私はどうだろうか、

と自分に問うても自然と俯き加減になってしまう。まだ、そうあって

はならない意識している自分がいることが救いだが。

 マンデラ氏がむこうの世界に旅立たれた。95歳。
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2013年12月03日

馬脚

来年の干支は馬。‘ひひん’と天に向かっていななく姿は勇壮

そのものである。狩猟民族、農耕民族という捉え方はその糧の取

り方を表しているのだろうが、同じく民族を表す言葉にある騎馬

民族の「騎馬」はやはり糧の取り方を表したのだろうか。移動の

手段を表したのはないのだろうか。騎馬民族はチンギスハーンを

生んだモンゴルが有名だが、狩猟民族は荒々しく、農耕民族は諍

いなく、騎馬民族は勇猛というイメージが似合う。狩猟民族は獣

を相手に、農耕民族は草木を相手に、騎馬民族は人間を相手に駆

け巡って来たように思える。さて、この馬、イメージは勇ましい

のだが、これに人がかかわってくると様相が少し異なる。

好調を博してきた者がここに来て、馬脚を現している。日本の都

の知事と軍事オタクの政治家。日本の都の知事はとある筋から無利

息無担保無保証で5,000万円を借りた。庶民では天地がひっくり返

っても考えられないことだ。とある筋の政治家が選挙法違反で手が

後ろに回った。それを知って日本の都の知事は急いでその5,000万

円を返済した。借りた日は都の知事選挙の登録の前日だったか(そ

の辺り)。とある筋とは医療業界を裏で支配していると思えるよう

な(?)筋で、トップの方は重症な病人なのか、車椅子でギョロッ

とした目しか動かないお方。その方は「(このお金)足のつかない

ように・・・」と言ったようで。私は都の知事の方の著作をいくつ

か読んでいて、どこか応援していたのに残念な気持ちが堪らない。

足のすねに傷がついた。

そして軍事オタク。カメラの前では,常に相手を圧倒するような物の

いい方。相手を見据え黒目を動かさず,相手を言い含めるように一語

一語ゆっくりとゆっくりと話す。これだけゆっくりと丁寧に言えば,

さすがのあなたもわかるでしょ、と言いたげに。そのオタクがデモ隊

の大きな声はテロ相当であると宣った。認められたデモは市民の正当

な権利である。大きな通りをデモ隊が歩き、主張を訴えれば自ずと声

は大きくなるだろう。住宅街を回っているのではない。デモ隊が回る

のは往々にして、目抜きの大通り、もしくは霞ヶ関の官庁街などであ

る。その官庁の中に陣取っている人々に自分たちの主張を聞いてもら

わねばならない。拡声器等を使うのは勿論限度があるにしろ当然であ

る。現在はこのテロがキーワードの一つだ。秘密保護法案たらを政権

与党が民主的な議論を十分に行わずに数のチカラで通過させようとし

ているからだ。この法案、稀代の悪法でしかないと私は見ている。こ

の法案が通れば国民の知る権利は殆ど死に体となるのではないだろうか?

自分たちに都合が悪いものをテロと定義づけるような危ういオタク

様。今自分たちがなんでもできるというおごりが見えたようだ。

 どちらともに馬脚を現したようで。馬脚から覗かれる隠れた本性

がどんなものか。都民、国民は十分に注視しなければならない。
 
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2013年11月29日

おいしい生活相談

生活相談員は昔からいたそうだ。私の親の世代は生活相談員と言えば、

民生と呼ばれる人たちと同義ではなかったかな。(違うかもしれない)

50年代60年代70年代、戦後はもう終わったと国はうたっても、まだそ

こかしこに戦後の名残はあり、昭和の真っ只中という時間だった。戦

後の高度成長を日本国はひた走り、国民は総中流を目指した。民生の

相談にあやかることは貧しいことの代弁で恥ずかしいこととして人々

は噂していた時代だ。

それが漸く70年の大阪万博をピークの始めとして、日本は世界に対し

てNO1と言われるようになった。その頃に新たに出てきた生活相談

員がいた。

 その相談員はアメリカ人で蝶ネクタイをして、おいしい生活相談員

と名乗り机に座っていた。アメリカ人はウッデイアレン。アメリカを

代表する、また全世界的な映画を始めとした文化人である。ちょうど

私が大学生の頃だ。おいしい生活は世の中を席巻した広告で、日本の

テレビ業界の隆盛が始まった頃だ。おいしい生活相談員は戦後の貧し

さなんかどこかに捨て去った生活を推奨して、アメリカの50年台、60年

代を彷彿とさせる消費生活を世間に促していたのだ。この言葉の生み

の親は糸井重里氏である。そしてこの広告を打ち出したのがセゾング

ループだ。セゾングループ勿論西武の関係である。鉄道が新宿と池袋

を起点にして、東へ(埼玉)と向かう線で、東急電鉄や小田急電鉄と

違い、ダサいイメージが張り付く路線だった。その西武がそのダサい

イメージをひっくり返そうとして若者の街渋谷に進出した。パルコで

ある。パルコはパーク(英語:公園)のイタリア語読み?だった、か

と思う。西武の渋谷パルコが若者文化を刺激し、次々と作り出した。

その時の事業者が堤清二氏。鉄道の堤義明氏とは異母兄弟で、不仲の

兄弟だと世間では言われている。堤清二氏は政治家、文学者、事業家

と様々な側面を持っていた。政治の顔は、一時は共産党に入党したこ

ともあって、強い思い入れがあったらしい。(その後離党をした)文

学者としての能力も高く、辻井喬のペンネームで数々の賞を獲得した。

事業の傍ら文筆活動にも注力していた。新作も不断に上梓されていた

ように思う。堤清二氏がなくなった。氏の功績はそれこそ数多いもの

だろうけれど、中でも一番は日本人においしい生活体験をさせたこと

ではないか、と私は思っている。その後日本はバブル崩壊、失われた

20年、リーマンショック、長期デフレに悩まされていったが、ここに

来て漸く日本経済復活の兆しが世界的に出てきた。彼が提供したおい

しい生活当時の高揚感がまとわりつく消費活動の復活は簡単ではない

けれど。彼がなくなった日に日本経済の復活が新聞紙面に漂うのも何

かの縁ではないか、と。
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2013年11月15日

いろいろ

明け方から土砂降りの降っていた雨が午後には上がり、私の

事務所の窓からは雲が見えないぐらいに空は青く広がってい

る。今年は夏が遅くまで陣取って居て、秋は冬にさし抜かれ

たようで、もう冬が近くまで攻めてきているようだ。個人的

にはもう少し秋を楽しみたいと思うところだが、冬の早い到

来もまたそれはそれで良し、だ。

 この秋になってなぜか懐かしい頼りがいくつかある。2週

間後に予定されている高校の同窓会のことを気にかけていた

ら、偶然に高校の同級生二人とあった。この二人は2週間後

の同窓会には連絡が届いていない二人で、同窓会のことを話

したら「へえ、俺のところには連絡がない」という話だ。二

人のうち一人は8年前にあったのだが、もうひとりは高校の

卒業以来35年ぶりだ。さらには、今日11月15日だが、大学

の校友会に出る予定をしている。早稲田大学の大阪支部の校

友会なのだが、私は初めて参加をする。それが昨日、それも

大学の卒業以来(卒業して32年)ごくわずかして会っていな

い友達からFaceBookで連絡が来たのだ。連絡を返し

たら、偶然に私の名前を見つけたらしく、懐かしくWebで

連絡を送ったという。歳月を重ねた容貌だが、美しさは十分

に現存している。誰もがそうだろうけれど昔の友達に何十年

ぶりに会う機会を持つ。それぞれにまたいろいろに人生の時

間を過ごしてきた。元気で古い友達にまた会えることはやは

り喜びである。

 また会えることが叶わない人たちも多くいる。「人生いろ

いろ」の歌で、私は存在している、と強くメッセージを発し

た歌手の島倉千代子さんが亡くなられた。年齢は70歳を超え

ていたと思うが。テレビの中や雑誌の紙面で見ない歌手が死

んでも実際に実感が湧くわけでもなく、悲しい感じも別にな

いのだけれど、芸能ニュースを賑わす彼女の人生の経歴を見

るとなぜか手が止まったり、言葉を飲んだりする。結婚生活

や生活の苦労がやはりどこか突き抜けている感じがするから

だろう。16歳でデビューの美空ひばりとならぶ国民的歌手、

3度の妊娠中絶、15億の借金、ガンの発見。どれもがその振

幅が普通の人よりあまりにも大きいからだろう。彼女のヒッ

ト曲「人生いろいろ」は国会の答弁にも使われたし、流行語

にもなりそうなフレーズである。いろいろな人々がいるので、

いろいろな人生は当たり前なのだけれど、自分たちが42.

195キロのマラソンを走るような人生だとすると、彼女の

道のりは山道の42.195キロではないかと。まあ、それ

も想像の域を出ないものだけれど。

 天皇に公衆の面前で手紙を平気で渡す国会議員。その国会

議員を平然と公に殺すと宣言する輩達。数十億もの他人の金

をくすねて女にみつぎ、結局は裸の無一文な男。高齢者のお

年寄りから集団を組んでお金をだまし取る連中。原発事故の

元凶を作っておきながらさっさと海外に逃げて安穏とくらす

連中、などなど。確かなことはいつの時代にもいろいろな連

中がいるということだな。
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2013年11月05日

市内逍遥

11月の3連休。旅行に行くのも大層だし(お金もかかるし時間もかか

る)家の近郊を散策することにした。近郊といっても1日目は小一時間

ほど車に乗って芦屋周辺を散策。このあたりの阪神間は大正時代に阪

神モダニズムと称せられることもあったほどの地区である。また西宮

から芦屋には独特の言葉文化もあると聞いた。大阪弁でも神戸弁でも

ない標準語に似た言葉があるそうだ。(これはテレビのドラマでもそ

うらしい。生粋の阪神間育ちの人がなめらかに標準語を使う場面があ

るそうだ)地方で標準ごと言うと、計画都市として造成された札幌が

思い浮かぶが、阪神間はれっきとした土着の人々である。その人たち

が標準語に近い言葉を喋ろうとは、さすがに高級住宅街芦屋近辺に住

む人たちが独自の言葉を作ったのかもしれないと想像する。この3連

休は前線の影響で暖かかったり寒かったりが一日の中でめまぐるし

く変わる。夙川沿いを少し暑いなと思って歩いていたと思ったら、

甲陽園から芦屋に行く途中では雲が陰り、寒い風が頬を伝った。駅

についた頃にはまた暖かな日差しが顔に照りつけた。全国有数の

住宅街であるこのあたりは、街並みには行政も住民も同時に心配

りがあるようだ。散歩をするにはやはり良い町並みだ。

 1日おいて次の日。民団の堺支部のイベントで百済人を訪ねて堺

市内を散策することがあった。堺市には百済村があったらしく、今

では明治や昭和の時代の区画整理のおかげで町名はなくなった。

百済町は北条町ともうひとつの名前の町になった。それでも百済

という名前は堺市のある地帯ではあちらこちらに見かけられる。

百済川、百済橋、公立中学校の門には百済門、八幡宮の寄進の石

柱には百済町。確か京都にも百済という地名があるそうだが、始

まりは堺かららしく、堺から京都へ広がっていったと言う。私も

知らなかったのだが、堺は大和(奈良)に向かう際の海の玄関だ

ったらしい。堺に流れる石津川を上って堺から大和へ物が運ばれ

たらしい。ここからモノの始まりはみな堺と言われるようになっ

たらしい。また堺は和泉・摂津・河内の三国の境にあり、境目の

ところで多くの営みが行われたという。これらの要因と応仁の乱

で主要港(琉球との往来)が神戸から堺に移ったことも踏まえて

堺は発展したらしい。中世の自治都市堺が現れた理由とのこと。

知らなかった。その後鉄砲の製造で隆盛を極め、その後豊臣に焼

かれ、太平洋戦争で焼かれて現在の堺に至ったという。多くのこ

とが知らなかった。兎にも角にも、境にある古墳群の造成に百済

人(びと)がその高い技術を提供したというのは本当に発見であ

り、地元に住む私にはとても新鮮だった。古代に大きな思いを馳

せた秋の一日だった。
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2013年10月16日

アメリカの圧力と日本の配慮

私が小学校に入学した年は昭和42年。もう45年ほど前になる。その当時には

既に給食があって、私が入った小学校はその給食の時間に皆がエプロンをか

けるということで、地方の新聞にエプロン姿の児童の写真が掲載された。高

学年の児童の写真だったと思うが、配膳係り、男女を問わずにエプロンをす

る。男の子は最初恥ずかしく思った子も多くいたという。給食の主食はパン

食であった。このパン食は太平洋戦争の勝者のアメリカが自国の小麦の販売

を促進しようとして、日本政府にパン食を強要したらしい。このあたりのこ

とは多くの著作やニュース、テレビ番組にもなっているので間違いがないだ

ろう。私はパン食が嫌で(別にパンが嫌いというわけではない)なぜご飯が

出てこないのだろう、といつも不思議に思ったものだ。パン食が出ない、運

動会や遠足の時の弁当の楽しみと言ったら、なかった。弁当箱を開けた時の

のりに巻かれたおにぎりの香り、今も思い返せばよだれが出てくるほどだ。

パン食とご飯のお弁当が交互にあれば良いのに、といつも思っていた。給食

のパンは食パンが出ることはなかった。コッペパンと2個取りパンというや

つでこれが扱いやすかったからかもしれない。(この辺はどうか分からない)

 今の日本ではパンがない生活は殆ど考えられない。喫茶店に行ってモー

ニングを頼むとモーニングサービスでパンのトーストがついてくる。これ

がなんとも美味しい。このサービスは名古屋から始まったと言われるが、

今では全国の喫茶店にモーニングサービスがある。私も8時ぐらいに喫茶

店に入る折には必ずモーニングサービスを頼みパンを食する。このパンの

普及に大きな影響を与えた物語がある。アンパンマンだ。やなせたかしさ

んが戦後の窮状を見て、この話を考え出した。アンパンマンは幼稚園に入

るまでか入ったぐらいまでの幼児向けの楽しくて暖かい話だ。アンパンマ

ンや食パンマン他色々なキャラクターがあるが、この構成は純日本風な構

成だと多くの人が述べている。食パンマンはお腹の空いている人がいれば、

自分の身(食パンの身)をちぎって困った人に与える。この助け合いとい

うか配慮がとても日本風であると言われているのだ。この論に私は賛成す

る。日本の人々の美徳はこの相互配慮にあったことは誰もがきっと賛成す

るだろう。アメリカの圧力から始まったパン政策は日本の作家によって見

事に日本化された。戦後はコメを作るより小麦を輸入したほうが国民の空

腹を克服するには手っ取り早かったということもあったかもしれない。戦

後すぐの日本の人々の空腹の克服には時間がなかったのだ。空腹を克服す

るにはコメも小麦も関係なく、ましてや政治の駆け引きが、関係があろう

はずがない。アメリカの圧力を日本の配慮で包み、見事に物語にしたやな

せたかしさん。やなせたかしさんが鬼籍に入られた。合掌。
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2013年10月01日

戦後の不条理

日曜日の夕方に私はよく散歩をする。近くには川があり、その堤の

歩道を歩いていく。その川は西向きに河口があり、私の散歩をする

あたりは海から1キロメートルほどしか離れていない。晴れた夕方

などは眩しく沈む夕日に向かって散歩をすることになる。この同じ

夕日を彼も浴びていた。彼の名は壱岐正。彼はこの川土手に腰掛け、

夕日を浴びながら立ち上がった。彼は戦後シベリアに抑留されその

後日本へ帰還し、大阪の商社に入った。彼の経歴はベールに囲まれ

ていることが多く、陸軍の将校であったと言われる。その時の人脈

を活かして、大阪の繊維商社を、日本を代表する商社へと成長させ

た。これは小説「不毛地帯」に書かれている話だ。この小説の作者

は山崎豊子。山崎豊子の小説は社会派小説と言われる。実在したも

のをフィクション化して数々の社会派の大作を書き上げた。そこに

存在するのは社会の不条理だと言われることが多い。私も同感であ

る。ある作家が文学が存在するのは人の社会には不条理が存在する

からだと言った。人間の営み、社会の営みが全て論理的にまた合理

的にあるのなら、文学や小説の存在する隙間はないだろう。人間が

作り上げる社会であるが故に文学や小説は存在すると言える。それ

を真正面から告発したのが山崎豊子である。医療の世界、商社の世

界、銀行の世界老舗の世界、中国残留孤児、航空業界等々。同じく

社会の不条理を描いた作家に松本清張がいるが、松本清張とは少し

趣を異にする。松本成長が人間個人の業の世界を追求したのに対し

て山崎豊子はあくまでも社会の中の人間を標的にしているところだ。

だから山崎豊子の話には必ずバックがある。病院組織、銀行業界、

軍隊、大企業、国家などだ。日航の御巣鷹事件を描いた「沈まぬ太陽」

では10近くも組合がある日航の非効率性を上げて事故を描いている。

これは現在人の命を預かるJR北海道が起こしている連続する事故に

も通じる。民営化以降毎年赤字を続けているこの企業に組合が3つも

あるというのだ。さすがに当時の日航の8つや9つだったかの組合の

数には及ばないが、病根は同じではないだろうか?日航もJRも戦後

の政治が産み落とした企業だ。(現在日航は民間企業のトップを招聘

し、企業の体質改善を成し遂げたように思える。しかし、問題はこれ

が企業文化として社内に永続的に根付くかどうか、だ)

 山崎豊子の小説は読む前には少し怯む。大作だからだ。文庫本にし

て一冊が1cmを超える厚みにして、それが2冊も3冊もなる。しか

し、読み始めたら怖気もどこかにとんでいってしまい、読むのが止ま

らない。小市民の想像からはるかにかけ離れた精緻な取材から紡ぎだ

される文章は、極上の料理に似る。食している時には一切のノイズが

耳には入ってこない。ただただ、夢中にさせられるのだ。

 次の日曜日も河口近い川に散歩に行くかもしれない。また西日の夕

日を浴びて、壱岐正が腰掛けた土手に腰をおろして、夥しい数の社会

の不条理の一つでも思いを巡らしてみようか。

 山崎豊子没。享年88歳。合掌。
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2013年09月30日

にぎわい(堺市長選挙について)

私の住む堺市ではあまり学生と出会わない。朝夕に高校の通学生

とは会うのだが、大学生とは出会わない。と言って、堺に大学は

ないかといえばいくつかある。大阪府立大学もあれば、堺女子短

期大学もあるし羽衣学園大学もある。いくつかあるのだ。なのに、

あまり大学生とは出会わない。

「さかいには賑わいがない。遊ぶときはいつも大阪市内に出る」

これは府立大学生の言葉である。

 堺市には賑わいがないのだ。

 昨日堺市長選挙が行われた。現職と新人の戦い。現職市長は初

当選の際、ブームであったら大阪維新の会の橋本府知事の応援を

得て選挙に勝った。その後、橋本徹氏が訴える大阪都構想に反対

して、橋本氏と袂をわかった。選挙に応援を受けながら、当選を

した後、反旗を翻すのはどうかと思うが、当人には当人の考えが

あるのだろう。ちなみに、再当選を果たした竹山市長が高校の同

窓の先輩であり、橋本徹氏は大学の同学部の後輩である。だから

と言って、何もないのだけれど、二人共が同窓であることに薄い

フィルターを通して今回の選挙を見ていた、というわけ。

 私は大阪都構想には大凡賛成だ。大阪の発展には大きな起爆剤

が必要で、それを橋本徹氏は掲げている。是非実践してもらいた

いと思うのだが、プロセスが難しい。というのも、橋本氏自身の

政治過程の拙さと都構想の理解が普及していないからだ。堺は古

い街である。昨日の夕方も散歩をしたが、その散歩道に国の文化

財として指定された民家がある。室町時代に作られた家で応仁の

乱を経て、明治維新を経て、太平洋戦争を経て、今に至っている。

私が幼稚園のときは毎日その家の前を通って通園したものだ。

 堺が発展しているかといえば誰も賛成する人はいないだろう。

中心地駅前の商店街、日曜日に通った人もいればわかるだろうが、

電気が消えたようなロードである。また旧堺市で繁栄していた商

店街はすでにシャッター通りとしてなっている。数年前に政令指

定都市となって市の財政は黒字になったらしいが、街並みは全く

変わっていない従来のママなのだ。堺市の賑わいはどこへ行って

しまったのか、と思えるほどに堺は停滞している。その停滞して

いる堺に‘堺は一つ。堺をなくすな’というスローガンで現職市

長は当選した。保守の街堺の面目躍如というところか。歴史は大

事だ。温故知新という言葉もある。しかし、生き残って行くため

には変化が必要であることは誰もが賛成するところである。堺の

発展を脇に置いて、政治家橋本憎し、と集まった政党の先生方も

多かっただろう。現職市長の言葉には堺をどうしていくか、とい

う内容がなかったからだ、一方の橋本陣営も堺をどうするかとい

った俗にいう青写真は見えていなかった。歴史ある堺は変遷を受

けながら残って来た。これからも変化を受けながら生き残って行

くのだろう。維新の側も堺がなくなることはない、ともっとアピ

ールすれば良かったのにと思うのだが、文字通り、あとの祭りで

ある。

 堺の賑わいが戻って来る日が近い未来にあることを願って止ま

ない。
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2013年09月24日

オ・モ・テ・ナ・シ

半沢直樹が終了した。久々の高視聴率だったらしい。ビジネス的には

続編が当然に考えられる状況である。最後の頭取の事例に反論する人

も多いだろうが、私怨であそこまでやれば子会社出向は妥当な結果だ

ろう。最近は年のせいか民放の番組に耐えられないことが多い。そこ

で別の番組を見るのだが、その番組で父が国の最高責任者のスピーチ

原稿を書く職業についていた青年がいた。父が一生をかけて書いた原

稿の国は消滅した。子供はジャーナリズムの世界に入り、情報を伝え

ている。スピーチライターの腕がその演説を左右するのは自明の理で

ある。スピーチ内容によって聴衆を酔わすか、苛立たせるか、だ。政

治家は大衆の公僕であるので、大衆を酔わさないと自分の立場が危う

くなる。民主社会でも一党独裁でも根本は変わらない。人心を掌握す

るパワーの一つはスピーチライティングである。このスピーチラィテ

イングを外部委託して(書いたのはイギリスのコンサルティング会社

の担当だったと読んだように思うが)日本は東京オリンピック開催を

成し得た。

テーマはオモテナシ。フランス語が流暢で(ペラペラな)特筆すべき

に値するぐらいの美しさを持った元アナウンサーが、手振りをいれて、

オ・モ・テ・ナ・シと訴えた。日本はオモテナシの心を持ってオリンピック

に参加する選手、またオリンピックを機に日本へ訪れる外国人を待遇

するとアピールしたのだ。これが見事にはまった。同じくパラリンピ

ックの選手で東日本大震災の被災者である女性アスリートがいかにス

ポーツのチカラで自分が被災かた立ち直ったかを話していた。こちら

は聴く人の言葉を奪うほどのストーリーだった。日本誘致団のチーム

は見事なプレゼンを開催決定委員会で行った。そして見事に東京での

開催を勝ち得た。これらの素晴らしいスピーチ内容とともに、東京が

勝ち得た要素は放射能汚染に苦しむ福島第一原発を抱くフクシマと25

0キロも離れていると人々を説得したからである。フクシマで今も苦し

む被災者たちはなんと思ったのだろうか?250キロも離れていると説得

に回る人々はフクシマの被災者に配慮したのだろうか?と言ってこの

ような愚問も甚だしい。彼らにとっては東京誘致が至上命題だったの

だから。それはそれ、これはこれ、というところだろう。フクシマの

人たちは東京を支える電力を送り込んでいた装置で苦しんでいる。そ

して東京はフクシマに対する配慮を徹底的に排除したオモテナシで五

輪を誘致した。

もう一度。東京オリムピック誘致は配慮を徹底的に排除したオモテナ

シで勝利した。
posted by P.S.コンサルティング at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記